【雑談ではございますが…】   鵜澤正則の超エッセイ
 41 そろそろ水辺のことをマジに考えよう  
                                     

先日、東京でNPOの 水辺環境を考える会″が主催する第1回会合「水辺の環境について」という議題でのシンポジウムがあり、 そこに講師として招かれて出席し講義を行いました。 私以外にもいろんな分野からの参加者による参加があり、釣り界からも磯釣りだけではなく船釣りや渓流釣りなどいろんな分野からの参加がありました。

水辺の環境は近年奇麗になってきたと思えるのですが、やはりまだまだ本気になってそのことを考えている人が少ないのです。そろそろこの水辺書環境について、本気になって自分達がしなければならないことを考えなければならない時代になってきたなという感じを改めて受けました。

こと礁釣りに関してですが、確かに釣り場の環境は決して良いとは言えません。ゴミの山、乱獲、公害問題と、いろいろな議論がなされているのです。

■狂気乱舞の磯釣りフィールド■

私は日本各地の主だった釣り場を見ていますが、それは確かに10年前からすれば徐々に良くなっていると感じます。しかし、本来の地球環境という観点から見ると日本の海は相当なダメージを受けているのではないかと感じられます。確かにゴミの問題はあります。身近なゴミです。ここ十数年コンビニが著しく普及し確かに非常に便利にはなったのですが、その分その袋や商品のパッケージがゴミに変身して、釣り場や漁港周辺を汚していきます。

 先日も、伊豆半島の先端沖にあるかなり有名な釣り場何箇所かを取材の関係で釣行したのですが、そこの汚いことといったらもう口ではいいようがありませんでした。それまでしばらく凪が続いていて、海水で磯の洗い流しの自然浄化?がなされなかったのでしょう、コマセの汁が磯の水溜まりに溜まってかなりの日数がたっているという感じでした。水の表面に黄緑色の幕がかかったようになっているし、岩の上には乾いたコマセ、そして岩の端のほうの汚い水溜りには空き缶やビニールなどが散乱していました。

 朝、今日はどんな釣りができるのかな、釣れるかな″などと意気揚々と渡船しても、磯に乗った瞬間その水溜りから出る悪臭に冒されたかのようにやる気が崩れ落ちてしまったのです。なんとも悲しい光景でした。


■メンタリティーの低さに辟易■

 そういう私もコマセを撒く釣り人の一人です。とりあえずその辺はかなり気を使っているのですが、他の人から見たら同じ穴のムジナ、みな同罪に見えるでしょう。だから決して責任逃れで言っているのではありませんが、このゴミは決して一部の釣り人だけの問題ではありません。そろそろ自分が出したゴミとか人が出したゴミとかという変な線引きをしないで、もしゴミがあったらできるだけ持って帰るようにしましょう。それよりもまず皆がゴミを捨てないことです。自分の持ってきた物を自分できちんと始末をできないような人は磯に上がって来ないでほしいと思います。

 では堤防ではどうかというと、ここも場所によってはゴミの山です。最近は奇麗になっている堤防もあります。でもこれは殆ど地元の渡船業者や住民がボランティアで掃除をしているからです。自己弁護でいうのではありませんが、確かにゴミを出すのは釣り人ばかりではありません。堤防などではそれが観光客だったり、または一部の地元の人、それも非常に情けないことですが、ゴミを捨てるのは若い人より歳がいった分別ができて当然然と思えるくらいの年齢の方に多いのです…。

皆が このくらいいいだろう″という軽い考えで、というよりも全くそんなことはお構いなしに何も考えずに汚していっているのです。海なら波がさらってくれるだろうから、捨ててしまっても目に見えなくなって他の場所に流れていってしまうだろう″という水に流す″意識が今でもあるのでしょう。なんとナンセンスなことでしょう。

 今ではこんな偉そうなことを言っていますが、僕だって今までの長い釣り人生で 「絶対にゴミを捨てていない」というような神様のようなことは言うつもりはありません。多分20年前はそんなに真剣に考えていなかったでしょう。でも年々海が汚くなってきて、魚が減ってきたり環境が汚れてきたりという中では、やはり”このままではいけない、何とかしなければ″という気持ちは徐々に上がってきています。

 最近では釣りに行った仲間やその周辺を見ていると皆がそういう意識を持ってきてはいますが、まだ本質的に大きな危機感を感じているわけではなさそうで、今一つ本気になってはいないように感じます。


■因果応報■

でも冒頭のシンポジウムが終わった後で考えました。果たして水辺の見た目は奇麗になっても、水そのものは昔のように奇麗になっているのかどうか、やはり疑問として残るのです。よく自然関係の学者などが 「砂浜は海水を浄化するために重要なポイントで、そこにいるバクテリアが水を奇麗にしている」ということを言いますが、何が水を奇麗に浄化してくれるかということを考えるよりも、自分達が汚している部分を少しでも減らすことのほうがよっぽど大事なことなのではないだろうかと思うのです。

例えば、家庭で湯水のごとく使われている中性洗剤の問題であったり、排水と共に捨てられる油の問題であったり、もっと大きなものはエ業排水の問題であったり…と思うのです。特にこの工業系の排水がかなり稚魚に大きな悪影響を与えているような気がするのですが…。

 有機物(食品系)はいずれバクテリアなどによって分解されるのですが、その総量が分解速度よりも多いと追いつかずに汚れてしまうのです。が、それも長い時間が解決できるものとしましょう。でも中性洗剤や工業排水などは最後まで分解されずにそのまま残ってしまうのです。ちなみに中性洗剤についてはとっくに使用禁止になっている国が欧米には多いのです。なぜ中性はいけないのかというと、中性で安定しているためにその成分が分解しないのだそうです。それが水の中に残り、あるものは海底に残ってエサ生物の口から体内に入って蓄積したり、それを蓄積している工サ生物から魚に入って、その魚を人間が食べてと食物連鎖のために循環して、最終的には自分たちに帰ってきてしまうのです。

■水辺の構造改革を■

 磯釣りシンポの時にはコマセの問題が出ました。コマセは有機物のエサを撒くもので水の富栄養化を引き起こしているという説があります。それに関しては決してそんなことはないと強く否定はしませんが、自然物のオキアミはともかく人工の配合工サを作るほうも気を使っているようです。

たとえば食べられないものは使わないとか、分解の早いものを使うとか、これも最終的には自然におんぷする部分もあるのですが、いずれは分解するものでありますし、その殆どは魚類の工サとして食われてしまうのです。コマセについても、これからはその使い方をもっと真剣に考えなければなりません。

 僕は今、東京湾で獲れる魚は食べる気がしません。あの水の色を見て、その周りの環境条件を見て、そこに棲んでいる魚を食べたいと思う人は少ないでしょう。これは東京湾に限らず、日本中の都市部に近い海には同じような光景が沢山あります。

 では外海だから安心か?といえば、必ずしもそうとはいえないのです。魚は自由に行き来しているし回遊しています。奇麗に見えてもただ汚さの濃さ″が薄まっているだけの所も多いのです。見た目は奇麗なのかどうかは別問題です。

 目に見えないものが溶け込んでいるということは良くありますし、それが長い時間に生命を脅かしていることもあるのです。自分達(これは勿論僕も含めてでありますが)が汚しているにも関わらず「奇麗な海に行きたい」とそればかり願っている人のなんと多いことか。人間、いや日本人はかなりわがままなのかもしれません。
 
これからでも遅くないはずです。自分達のできるクリーン作戦を各々が各地、各フィールドで実行していかなければならないのではないでしょうか。日本人は良いことでも悪いことでもとかく足並みを揃えがちです。

 「赤信号みんなで渡れば怖くない」などという言葉はとっくの昔になくなったシャレです。

他人が汚しているから自分も″などというのはもう通用しなくなっているのです。結局は各方面ともトータルで水辺のことを考えなければならない問題です。一部だけ先行しても効果が無いし、それはすぐに結果が出るものでもありません。 長い時間かかって汚れてきたのですから、回復するにはやはり長い時間がかかると思います。水辺の回復は「諦めずに地道に…」なのです。