【エド山口釣友記 あなたがいたから、僕がいた。】
    
連載4 『丹羽のター坊』
         
      text エド山口 illustrationもりしま蝗

1977年、南伊豆中木磯。関東モロコ会の精鋭として活躍していた丹羽のター坊は、ひときわ目立つ存在でした。
なにしろ、当時は珍しい男のロン毛。カタギらしからぬその姿から、バンド屋に違いないと見当をつけた。このころから2人は急激に親しくなって現在に至り、そして楽しい釣り仲間としての付き合いは、いつまでも続いていくのです

僕はター坊と呼ばせてもらっていますが、正しくは「丹羽正」。 本誌でも創刊以来お馴染みの、ダイワの契約テスター丹羽先生であります。
 
この稿を書くにあたって、今一度調べ直したところ、ター坊との出会いは1977年の南伊豆中木磯に遡ることがあらためて判明。
となると、足掛け28年の付き合いということになります。当時の彼は「関東モロコ会」の精鋭で、外見は現在の半分、つまりガリガリに近いくらい痩せていました。
 
そのころのエドの釣りスケジュールは、土曜の深夜過ぎまで仕事をし、寝ないで南伊豆に走り、日曜早朝に渡船して終日釣り。宿に泊まって、翌月曜の昼まで竿を出してから東京に戻り、夕方から翌火曜の朝4時までギターの弾き語りをする。これを1週間続けて、そして再び土曜日が来ると中木へ……。このパターンを毎週のごとく繰り返していたわけです。
 
その当時、渡船が大根島を通過する際には「銀座」「平島」などの釣り座に、関東モロコ会の赤地に白線の入ったヘルメット姿が必ず見受けられたもので、その中でもとくに日立っていたのが丹羽のター坊でした。

その理由は彼の長髪。肩まで伸ばした髪を後ろで束ねているのですが、ヘルメットから後方に垂れているその髪が、磯から離れて走行している船からもハッキリと視認できるほど際立つ存在だったのです。

「あれ、男だよな?」
今でこそファッションとして定着している男のロン毛も、当時皆無だったことを考えれば、目立って当然でしょう。
 
そんな彼と初めて口をきいたのは、1980年8月24日、大瀬地区の「オン根」です。こちらは女性1人を加えた4人。磯に上がると関東モロコ会のメンバー4人がすでに竿を入れていて、その中にター坊がいたのです。

「こんちわ〜」と声を掛けると、「西ができねえから、俺達も逃げてきたよ、おう、上物かあ?」
 
この時から会えば挨拶を交わすようになり、翌年の初夏に八丈島で偶然同じ船に乗り合わせ、帰りの飛行機も一緒だったことから、羽田の荷物受取場で、「今度7月に八丈鳥島釣行を計画しているんだけれど、行かない?」と声を掛けたわけです。
 
八丈から一緒だった釣り仲間で元グループサウンズ「オックス」のリードギターだった岡田の史郎ちゃんが、「エドさん、彼ってどう見てもバンド屋だよ、カタギじゃないニオイがする」などと推理をしていただけに、ここは一番、正体を見極めてやろうとの意気込みから、
「で、費用はいくら掛かるんだ?」と尋ねてきた言葉尻を逃さず、「八丈からのチャーター船で、飛行機代別の1人[ツェー+デー万]くらいかな」
「へえ、安いじゃん、行くよ」
 
これで彼がバンド関係者であることが明白になったわけです。
 
バンドマンには、金の勘定をする際、音楽コードを隠語として使用するという慣習があります。1がC(ツェー)、2がD(デー)、3がEで4がF、5がG(ゲー)、6がA(アー)、そして7がB(ハー)。このCが二桁になると[ツェー+]、三桁になると[ツェー百]と称します。したがって[ツェー+デー万]は12万円のこと。
 
これをスンナリと会話できる人種はバンド屋しかいないわけで、横浜に住む彼の連絡先を教えてもらった後に、史郎ちゃんのところに戻り、
「やっぱ、バンド屋だぜ、ツェー+デー万と言ったら、間を置かずに安いじゃんとか返ってきたぞ」
 
81年7月20日から飴日までの8日間、8人体制で鳥島&スミス釣行をかけることになるのですが、そのメンバーの中に丹羽のター坊と、のちに彼の奥さんとなる「梢」ちゃんが入っていたことは言うまでもありません。
 
これを様に、ター坊とエドの仲は急激に接近し、この年の12月6日には、エドのバンド&ター坊のバンド主催で、横浜でダンスパーティを開くなどという展開になっています。
 
その後、小笠原に行ったりと親交は深まり、「サバル」を南伊豆に開店したい旨をター坊から聞かされた六本木の喫茶店で、「男は30歳あたりで一生の仕事を決めたほうがいいと思う、オレは大賛成だな」などと話した記憶があります。
 
そうそう、そのころのター坊はクリーム色のブルーバードの510に乗っていて、その屋根には常に「トンボ竿(モロコ用の継ぎなし1本竿)」がセットされていました。
 
千薬の中島の忠さんの店で修業を積んだター坊が、伊豆の河津に「サバル」をオープンしたのは、その2年後のこと。
 
このころから、底物師としての丹羽正だけではなく、上物釣りの分野においても著しい躍進を遂げた経緯は皆さんの知るところです。24時間営業の釣り具&エサ屋を経営したことが身体に合っていたのか、このころからター坊はメキメキと太りだし、それにともなって頭のチッペンが徐々に薄くなっていったのも周知の事実。
 
考えてみれば、エドが中木にハマった理由の一端はター坊にあるのです。
 
77年当時、僕の中木における渡船は現在常宿としている「武丸」ではなく、彼と同じ「重五郎屋」でした。これにはワケがあって、「武丸」は75年からすでに開業していたのですが、その当時は、やはり全磯連指定宿に行くのが常識だったからです。
 
ある日、磯から上がってきてお茶を飲んでいると、
「ホラ、あそこの磯はさあ、15メートル前に横溝があるんだよ、そこの向こう壁に仕掛けを入れて落としていかなきゃ、魚が掛かったときに手前の壁で糸がスレるじゃねかえ!」
 
デッカイ声で怒鳴るように喋っているター坊を横目で見ながら、「チェッ、よく知ってるじゃないか、今に見ていろオレだって!」
 
これがキッカケで「中木のことならエド山口に聞け」になったわけですから、ター坊には大感謝であります。
 
ター坊&梢ちゃんとの付き合いは、よほどのことがないかぎり、どちらかが死ぬまで続くと思うので「ヨロシク!」中木のキッカケは〜ター坊!